のろしの里

ホーム > 須玉町歴史散歩 > のろしの里

のろしは、古くからあった煙や火を使った通信方法で、古代中国や中世イギリスでも使われていた記録があります。
日本では、古くは弥生時代の高地性集落にのろしの施設があったことが報告されています。7世紀の飛鳥時代には外寇の侵略や内乱に備えるためにのろしを使った記録が『日本書紀』にあります。

■ 古くはのろしを烽燧(ほうすい)と言いました。烽も燧も「のろし」を意味しますが、烽は昼に上げる煙で、燧は夜間に上げる火を意味しました。
日本にのろしが伝えられた時に初め飛火(とぶひ)と呼ばれていたのが、のちにのろし(烽、又は烽火)と呼ばれるようになりました。烽はのろし(煙や火)とその設備も意味に含み、一方、烽火はのろしそのものを意味します。

のろしに当てはまる字に狼煙があります。これはオオカミの糞を火種にしたことからその名が付けられました。狼煙は真っ直ぐ上がって風にも強いと言われています。しかし、日本では狼の糞がまとまって手に入らなかったため、藁、杉の葉、火薬などを代用しました。


中国では、紀元前200年頃、漢の時代にシルクロードに点在していた烽火台で匈奴の襲来を防ぐのに使われた記録があります。

イギリスで狼煙が使われた記録は16世紀に溯ります。
Dr.S.Turnbullによると、1588年、スペインのフィリップ2世が無敵艦隊を率いてイギリスに進撃しようとした時、イギリスのドレイク海軍将校はイギリス海峡から内陸に造らせていた狼煙ネットワークによって無敵艦隊の進撃を知らされたそうです。この時の狼煙台のなごりでイギリスには今もBeacon(烽火の意)という名前のついた丘がたくさんあるそうです。
Dr.S.Turnbull、 Director of Japan Archive Picture Library at Leeds, England.

日本の烽制の変遷
  • 弥生時代、すでにのろしが通信に使われていた。
  • 664年、対馬・壱岐・筑後国に防人と烽を置いた。これは663年に朝鮮半島白村江で、日本軍が唐・新羅の連合軍に敗れたことから国防のために備えた。
  • 718年、『養老令』に烽の設置間隔や上げ方を細かく定めた。これによると烽は40里毎に置かれ、烽を担当する者を烽長・烽子と呼ぶと定め、また昼は煙を上げ夜は火を上げることも決められていた。
  • 8世紀、『風土記』によると、出雲国に5ヶ所、豊後国に5ヶ所、肥前国に20ヵ所の烽があったとされている。
  • 8世紀には、平城京に通じる高見峰(生駒山)、平安京に通じる牡山(おとこやま)に烽があったことが知られている。
  • 天平年間(728〜744)、新羅との関係が緊張した時、壱岐と出雲間に烽を置いて通信試験をしたことが伝わっている。
  • 740年、藤原広嗣の乱の時に、広嗣が筑前国遠賀郡下で烽を上げ、国内の兵を徴集したことが知られている。
  • 799年、太宰府管内を除き烽の制は撤廃された。その後烽制は衰えた。
戦国武田氏が築いた烽火ネットワーク

■ 戦国時代に武田氏が築いた烽火台の大伝達網(ネットワーク)は、信玄の居城であった府中(現甲府市古府中町)の躑躅ヶ崎(つつじがさき)館を中心に現在の長野県・埼玉県・静岡県・神奈川県方面に張り巡らされていたようです。
須玉町はそのうち長野県(信濃)へ通じるルートに位置します。そのため須玉町の若神子(わかみこ)は戦略上の重要な地点でした。武田信玄は川中島へ出陣のときには若神子で幾度か陣を張ったという記録が『高白斎記』や『甲陽軍鑑』に記されています。

■須玉町内にあった烽火台は塩川と須玉川沿いに4〜5キロメートルの間隔で点在していました。『甲陽軍鑑』には「大河をもって用うべし」ともあり、塩川流域のように両岸が山地のような地形が烽火台設置に適していたコースだったようです。さらに、烽火台のある山の後方には高い山や大きな森などが背景となって遠方からでも白い煙がよく見えやすいように配慮がなされていました。

■町内には少なくとも12ヵ所の烽火台があったことが調査から判明しています。
信州峠に烽火が挙がると、北から黒森・和田・御門(みかど)・神戸(ごうど)・前の山・比志の城山(じょうやま)・大渡・馬場(ばんば)・獅子吼(しし)城・中尾城、そして若神子城の各烽火台へと次々に伝達され、さらにここから南に位置する躑躅ヶ崎へと伝達されていったのです。
躑躅ヶ崎と信州の善光寺平までの間の距離は約160kmありますが、もしこの区間を早馬で伝達すると十時間以上もかかったものを、烽火を用いると約2時間程度で伝達されたということです。


須玉町にあった烽火台
  1. 若神子古城
  2. 若神子北城
  3. 若神子南城
  4. 津金源太ヶ城
  5. 江草獅子吼城
  6. 斑(まだら)山の烽火台
  7. 大渡鳥居峠烽火台
  8. 岩下の城山
  9. 比志の城山
  10. 塩川の(前の山)烽火台
  11. 神戸(ごうど)の烽火台
  12. 比丘尼塚烽火台
烽火台があったと伝えられる場所
   13. 津金古宮城
   14. 万燈火(まんどうび)山
   15. 小倉(こごえ)の中尾城
   16. 観音峠
   17. 御門の秋葉山付近
   18. 黒森の北の山
   19. 黒森と信州峠の間
   20.信州峠の東側
■ 近年の研究によって武田氏の城郭配置と烽火の伝達経路とが密接に関係していることがわかってきました。
信玄は躑躅ヶ崎を中心とした烽火の大伝達網のほかに、支城を中心とした小伝達網も構築していました。ふつう支城と支城との間隔は4〜5キロメートルなのですが、小伝達網の場合、1〜2キロメートルと短くなっています。これは、支城と支城との連絡を行うためであったと思われます。この規格化された距離は効率的な連携プレーを行うためで、このために烽火伝達網を計算したうえで城地の選定が行なわれたことが想像されます。
近距離での通信手段には烽火のほかに、晴雨に影響されにくい音(法螺貝や太鼓・鐘をなど)も、用いたと思われます。

■ 『甲陽軍艦』には武田氏の軍法の通信方法の一つとして飛脚篝火(ひきゃくかがりび)の名で紹介されています。しかし、具体的な構造や上げ方のなどの記述のある武田時代の記録はありません。


須玉町に復元された烽火台
古文書にある烽火台の絵
『和漢三才図会』より

これは『和漢三才図会』を参考に復元された井楼矢倉式の烽火台です。跳ね釣瓶(つるべ)の先端に煙種や火種をとりつけて空中に上げます。

若神子城の烽火台若神子城の烽火台の写真
『和漢三才図会』は江戸時代中期に寺島良安が著した百科辞書です。
獅子吼城の烽火台の写真
獅子吼城の烽火台

これは煙突式の烽火台で塔の下の部分で火をたいて煙を出します。この煙突式の烽火台(塔)は韓国にあるそうです。まだ見たことはありませんが石造りの立派な物らしいです。

NHKの大河ドラマ「武田信玄」の関連番組のときに造りました。

ここ獅子吼城跡からは若神子城ばかりでなく彼方に韮崎市の新府城が眺望できます。
のろし VS 新幹線 競争
1988年、 烽火で大阪(大阪城)・尾道250qを29ヶ所で中継し新幹線と競争を行いました。結果は烽火が1時間58分で伝わったのに対して、新幹線はそれより10分速く到着したそうです。現代の新幹線とそれほど変わらない伝達速度には驚きました。
尾道のろしリレー
烽火研究会「信玄公祭り」に参加
平成10年4月11日に甲府市で行なわれた恒例の「信玄公祭り」の武田軍団出陣行列で烽火研究会が烽火を上げました。くわしくはこちらをご覧ください。
津軽海峡(北海道−青森)を渡す烽火実験
江戸時代、松前藩の殿様が参勤交代の際に津軽海峡を渡るときに合図として烽火が使われたそうです。この史実に基づいて津軽海峡を挟んで北海道と青森を烽火でつなぐ実験イベントが行なわれました。北海道側から上げられた烽火は青森側の竜飛崎(約25キロ)と三厩港(約37キロ)からも肉眼で確認できたそうです。1998年6月30日に北海道福島町で行なわれたイベントです。
狼の糞を使って実験
平成10年11月16日、獅子吼城址に復元されている烽火台で実際に乾燥させた狼の糞を燃やして狼煙の実験をしました。この模様は山梨放送テレビで放映されました。


      須玉町歴史散歩 | サイトマップ       image

(c)須玉町歴史資料館