歴史と沿革

ホーム > 旧津金学校 > 歴史と沿革

津金学校(つがねがっこう)は、「学制」発布の翌年(明治6年)に公立学校として創立されました。そして、日清・日露・太平洋戦争の激動の時代を乗り越えて昭和60年に閉校になりました。1世紀以上の長い歴史の間、明治・大正・昭和、各時代の変化を受けながらも津金地区の教育と文化の要(かなめ)としてありつづけました。

当初、津金学校と呼ばれていた校名は、明治20年には津金尋常小学校に改められ、更に太平洋戦争直前の昭和16年に津金国民学校となりました。旧津金国民学校は、新学制の発布により、戦後の昭和22年3月31日をもって廃止となり、新たに津金村立津金小学校と同村立津金中学校が設置されました。そして昭和43年(1968年)に、津金中学校は須玉中学校に統合されました。

太平洋戦争時の学校日誌の抜粋から当時の教育現場の様子がわかります。学校史年表をご覧下さい。


野口英世の銅像津金学校の銅像は二宮金次郎ではなくて野口英世です。この像は津金小学校創立90周年記念に清水基・清水治両氏から寄贈され、昭和39年1月13日に除幕式が行われました。
野口博士の生家が保存されている野口英世記念館の案内へリンクします。
津金小学校の校歌は『海ゆかば』の作曲者である信時潔(1887‐1965)が昭和37年に作曲したものです。信時潔が亡くなる3年前の作品となります。校歌制定を記念した発表会が盛大に行われ、これを機に22万4千円の寄付を受け楽器を購入しています。

信時潔とは…大阪生まれ、東京音楽学校を明治43年に卒業後、ドイツへ留学して作曲を学ぶ。帰国後、母校の教授を務める。主な作品は、『木の葉集』(1934)、『沙羅』(1935)、『海道東征』(1940)など。

現在津金に残る 旧津金学校校舎藤村(ふじむら)式校舎と呼ばれています。明治8年に落成されました。正式には 藤村式擬洋風校舎 です。擬洋風とは、外観は洋風に見えるのに、中は和風建築の技術を用いて建てられた和洋折衷の建物のことです。2階にはベランダがあります。そして壁は白漆喰(しっくい)で塗られています。屋根上には太鼓楼と呼ばれる櫓(やぐら)があり、昔は太鼓を叩いて授業の始まりや終わりを知らせました。

藤村式という名称、は明治7年から20年頃の間に山梨県で建てられた擬洋風の建物の呼び名です。明治6年に山梨県へ赴任してこられた藤村紫朗県令 (県知事)の名前から付けられました。

復元前の藤村式校舎

藤村式校舎は昭和40年中頃には教室として使えなくなっていました。廃校のように放置されていた校舎は昭和63年に解体され平成元年に復元されました。床や柱のほとんどは創立当時のものを使っています。現在は1階が文化財保存修復作業場・事務所として使われ、2階と3階が須玉町歴史資料館になっています。

旧津金学校の校舎はこの藤村式校舎の他に、大正時代と昭和に建てられた2つの校舎があります。平成9年3月まで明治、大正、昭和の3つの校舎が残っていましたが、 大正校舎 は平成10年5月に新しく農業体験施設『大正館』として新築復元されました。外観は昔の校舎のままになっています。一方、 昭和校舎は、津金中学校として昭和28年に建てられました。この校舎は東宝映画「学校の怪談2」のロケにも使われました。昭和校舎は平成11年3月に建てかえのため取り壊しとなり、平成12年5月にレストラン・ハーブ湯施設を備えた『おいしい学校』としてオープンしました。残念ながら昔の校舎の面影はなくなりましたが、新しい施設として人気を集めています。

古い写真

左の画像は大正15年の津金尋常高等小学校第十四回卒業の写真です。この画像には奥に藤村式の校舎が写っています。屋根の上の太鼓楼が取り払われているのがわかります。

太鼓楼は雨水が漏ったため大正元年に排除されました。藤村式校舎の屋根は建てられた時には板葺きだったため雨が染み込みやすかったのです。

手前の校舎は大正校舎です。


旧津金学校の3つの校舎


右の写真は、昭和41年頃の卒業アルバムの津金学校です。運動場(校庭)の北側に沿って並んでいる3つの校舎のうち左側が昭和校舎で、真ん中が大正校舎です。そしてそのすぐ右隣の小さい瓦屋根が藤村式校舎です。
それぞれの校舎の位置をクリックしてみてください。各校舎のページにリンクしています。

校庭の人文字は生徒数が足りなくて地面に校名を書いてその横に生徒が並んでいるのがわかります。


image 旧津金学校学校史年表サイトマップメール image

(c)須玉町歴史資料館