須玉町の遺跡
 

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御所前遺跡【津金】
津金御所前遺跡 所在地 須玉町下津金字御所前 遺跡の立地  本遺跡は、須玉川とその支流の波竜川とにはさまれた相の原台地にある。相の原台地は、標高約七五〇〜八〇〇mで、南に向かって南北約二〇〇m、東西約五〇〇〜七五〇mの細長い逆三角形の緩やかな傾斜をもつ台地である。須玉川との比高差は、約七〇〜一〇〇mで、この深い谷間によって西の八ヶ岳南麓の広大な地域と一線を画し、北や東は、比高差二〇〇〜三〇〇mの山々にとり囲まれ、周辺とは完全に独立した地域を形成している。
 遺跡は,津金地区のほぼ中央に位置し、旧津金小学校校庭の南に所在する。学校敷地内から北には古宮館,原の前遺跡がある。
縄文時代の中期の村の跡が発見され、華麗で豪華な土器が多数出土。特に水炎型大把手付き深鉢や出産文付き深鉢は全国的に有名。

全国的に有名な水炎型土器や出産文土器が、発見された遺跡です。特に水炎型土器は、海外の雑誌などに日本を代表する土器として紹介されています。
 

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桑原遺跡【津金】
桑原遺跡
所在地 須玉町上津金字宮ノ西六九六番地ほか
立地環境
 本遺跡は、標高約八〇〇bの須玉川左岸の段丘上にある桑原地区の南西に位置し、相の原に向かう道路の北側にあたる須玉川の支流、波竜川の左岸台地上、南向きの斜面にある。波竜川を挟んだ西側には古宮館、相の原遺跡、津金御所前遺跡がある。
縄文時代後期から晩期にかけての土器や耳飾りが多数出土。耳飾りの工房跡かと推定される。
 

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桑原南遺跡【津金】
桑原南遺跡 所在地 須玉町上津金字宮の西六四一番地ほか 立地環境  桑原遺跡の南側、道を挟んだ南向きの緩斜面に立地しており、調査年度が桑原遺跡の翌年となったためこの呼称となった。 縄文時代、平安時代、中世の建物跡が多数発見された。

 
 

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原の前遺跡【津金】
原の前遺跡 所在地 須玉町上津金字原の前 立地と現況  津金地区のほぼ中央、旧津金小学校の北にあり、東には古宮館がある。 縄文時代早期から前期、中期にかけての家が多数発見された。

 

 

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御屋敷遺跡【津金】
御屋敷遺跡 所在地 須玉町下津金一二〇八-一他 立地環境  現在は関屋橋という小字名のみを残す関所跡を通り、旧津金村五か村の一つ、本遺跡が所在する和田の集落を東へ抜けて馬場峠を越えれば『甲斐国志』に記されている江草村の三つの口留番所の一つがあった馬場へ通ずる。小尾街道を南へ下れば獅子吼城が聳える根小屋から若神子へ、、北進すれば、鳥居峠を抜け塩川沿いに比志、小尾等の集落を通って信州峠へ至る。本遺跡は、この道の北側の水田地帯に位置する。調査区南端の的場と呼ばれる狭小な地には、津金衆の地頭だった清水縫殿助が、屋敷から谷川越しに矢を射った処との伝承がある。この清水氏が開基とされる養泉院の寺域内には馬五輪と呼ばれる石造物が遺る
縄文時代早期から前期にかけての住居と、中世の土器が発見された。
 

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御屋敷西遺跡【津金】
御屋敷西遺跡 所在地 須玉町下津金一一四一他 立地環境  本遺跡は、津金山から流れ出る波竜川の右岸、金毘羅神社の山裾に広がる和田地区の西側に位置する。和田地区の東側にある御屋敷遺跡とは反対に、南西側の水田地帯にあるため、この名称が付された。
平安時代と縄文時代早期から前期にかけての家が発見された。
 

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大小久保遺跡【若神子】
大小久保遺跡 所在地 須玉町若神子字大小久保 立地と環境  大小久保遺跡は、国道一四一号線と中央自動車道が交差する地点の北西、若神子集落の真西にあたり、北を甲川、南を鳩川に挟まれた比高差約一〇〇bの台地上、八ヶ岳南麓の七里岩台地の東端に立地する。
 この台地の主要な河川である鳩川・甲川・西川は、いずれも若神子周辺の南西で須玉川に注いでいる。古来よりこの河川筋に沿って交通路が発達していたものと考えられ、その中心に位置する若神子が、この地域一帯の用地であったことは地理的にも示されている。

山梨県で初めての平安治歳の土器を焼く窯跡が発見された。
 

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若神子城古城遺跡【若神子】
若神子城
歴史的経過
 『甲斐国志』古跡部第十の若神子の条に「相伝へテ新羅三郎義光ノ城跡ナリト言フ。村西ノ山上ニ旧塁三所アリ中央ヲ大城と称ス。北に西河廻り、南ニ湯渓(註・湯沢)ソノ後ロハ黒沢村・蔵原村(註・高根町)ヘ続キ、麓ヲ辰ノ口ト言ウ。西河ノ北正覚寺ノ後山ニ一所アリ。其ノ東北ハ籠手指坂(註・小手指)ナリ。湯渓ノ南鯨河ノ北ニモ一所、下村ノ上ニモ一所アリ。何レモ山上広ク険ニ倚リ湟塁処々ニ存シタリ。(中略)逸見山ノ館ト記するも居城ノ趣キニ聞エタリ。谷戸ハ要害城壁ニテ、居館ハ此処ナラン。(中略)蔵原の村内も皆塁湟の迹ナリ。陣場・鎧堂等ノ地名アリ。箕輪大坪組ノ下(註・大坪砦)籠手指坂ノ上ニモ(註・十騎屋敷)一構ノ塁アリ。若神子ノ塁ニ続キ、間ニ雲雀渓ヲ隔ツルノミ。天正壬午ノ時北条氏旧塁ニ拠リテ陣取増築セシコトナルベシ。云々」とある。
 つまり『甲斐国志』は、若神子の西の台地上に平坦な城跡が三ヵ所あり、北城は小手指坂の南、正覚寺の裏山に、中央の城跡は大城と呼ばれており、北城の南を流れる西川とその南を流れる湯渓(沢)とに挟まれた台地上にある。この台地の東北麓を辰ノ口(竜ノ口)と呼んでいる。さらに、南城は下村の西で北を湯渓、南を鯨川(沢)に挟まれた山上にあると、記しているのである。
 『吾妻鏡』が「逸見山の館」と記している居館は、若神子にあったもので、谷戸城は要害であろうとも述べている。
 現在でも、『甲斐国志』の記述のとおり若神子の西側の山上の三か所に確認できる。

若神子古城
所在地 須玉町若神子字古城・小林
遺跡の概要
 北城の南西に西川を挟んで位置する尾根の先端にあり、この尾根には現在農村公園が整備されている。
 義光・義清の位牌を納める正覚寺がこの城の北東、鬼門にあたる方角にあること、また、古城という字名であることから『甲斐国志』が「相伝ヘテ新羅三郎義光ノ城跡ナリト言フ」と記す遺構は、この若神子古城であると考えられる。しかし、明治時代に若神子集落が大火に襲われた時に、その復旧のため壁土の採掘場となり、さらにはその後畑に開墾されてしまったため、残念ながら明確な遺構を確認することはできない。現存する遺構は、先端付近で尾根を南北に切断する空掘(@)と、この堀の南側平坦地の土塁の一部(A)と考えられる高まりである。また、北側には、若神子と黒沢を結ぶ旧道(B)があるが、この道は空掘であったと思われるため、この道以南が城域と考えることができる。
 農村公園の建設に先立って発掘調査が行われた。この調査では、@の空掘りの北側にある中心の郭を南北に切断するための空掘(C)が、その郭の中心部で検出された。この堀は断面がV字状になる薬研堀であるが浅く、掘削途中であったとの判断がなされたため、天正一〇年に小田原の北条勢力によって構築されたものと考えられている。また@の空掘の南側では櫓と考えられる方形に並ぶ四個の柱穴が検出されている。いずれの遺構も城域の南半分からの検出である。出土した遺物は、古代の布目瓦と若干の土師質土器であった。

平安時代末の冬期や布目瓦の一部が出土し、ヤゲン堀・箱堀・見張り台跡などが発見された。
 

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川又遺跡【若神子】
川又遺跡 所在地 須玉町穴平字川又 立地と現況  八ヶ岳南麓の泥流大地を侵食する須玉川が、右岸に南北に伸びる河岸段丘を形成し始めめるところが穴平字川又である。東は須玉川を挟んで斑山に、西を泥流大地に囲まれた南北に長い段丘である。本遺跡は、この河岸段丘の北端に位置する。この西側には大地へ上がる安都那坂、北東には須玉川を渡る万年橋がある。

山梨県で初めてカメ棺葬が発見された。縄文時代後期から晩期にかけての土器が出土。
 

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川又南遺跡【若神子】
川又南遺跡 所在地 須玉町穴平字川又 立地と環境  本遺跡は、隣接する川又遺跡(昭和五九年度調査実施)の南に続く遺跡であるため、川又南遺跡とされた。遺跡は、南流する須玉川右岸の河岸段丘上に立地して、北から南へ末広がりの緩斜面に展開している。遺跡の北側は、須玉川にかかる「餓鬼の咽」と呼ばれた万年橋付近を基点として扇状に広がり、西は,八ヶ岳南麓東端の台地際、通称「片瀬」の地が、比高差約四〇〜六〇bの斜面となって若神子までおよぶ。
 本遺跡は、川又地区の集落の西と南西にひろがっている。更に南には西川遺跡が存在するなど、この地区には遺跡が多い。

山梨県で発見された中で最も規模の大きい埋甕群が発見された。
 
 

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蟹坂東遺跡【若神子】
蟹坂東遺跡 所在地須玉町穴平字蟹坂 立地環境  本遺跡は,標高約五〇〇b、須玉川右岸の低河岸段丘上の穏やかな南傾斜地あって、東西約九〇b、南北約一一〇bの範囲に広がる。県道若神子―津金線跨いだ西側には.....(つづく).

 
 

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宮田、笠張遺跡【若神子】
宮田、笠張遺跡 所在地 須玉町穴平七五四他 立地環境  本遺跡は、須玉川右岸段丘上の標高約五七〇?に立地する。県道清里―須玉線脇にあって、曹洞宗見明寺の参道入口から二〇〇?余、二日市場集落寄りに位置す.....(つづく).

 
 

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十騎屋敷【若神子】
十騎屋敷 所在地 須玉町若神子字小手指 立地環境  若神子の北、正覚寺の裏山にある大城の尾根続きで、佐久往還の旧道が尾根に上り切る場所の左右に、数段の平坦地がある。現在のグリーンテニスクラブ北東に位置.....(つづく).

 
 

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若神子御所【若神子】
若神子御所 所在地 須玉町若神子字御所村 遺跡の概要  若神子地区には、御所村(ごしょむら)・御所前(ごしょのまえ)・御所村北(ごしょむらきた)・竜ノ口(たつのくち)・古城(こじょう)・竹之内(たけの.....(つづく).

 
 

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岩下弥三郎屋敷【若神子】
岩下弥三郎屋敷 所在地 須玉町境ノ沢 遺跡の概要  『甲斐国志』士庶部第十一には「岩下弥三郎 境ノ沢村 里長蔵ム天正壬午十一月八日御朱印ニ、堺ノ沢郷五拾貫文云々トアリ。弥三郎ノ墳墓ハ同八郎左衛門屋敷ニ.....(つづく).

 
 

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西川遺跡【若神子】
西川遺跡 所在地 須玉町穴平字西川 立地と環境  八ヶ岳南麓東端の「片瀬」と呼ばれる台地が、北は高根町箕輪新町の東端から南西へ小手指坂あたりまで延び、穴平地区からの比高差四〇〜六〇bという急崖が続く。.....(つづく).

 
 

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夏目原遺跡【若神子】
夏目原遺跡 所在地 須玉町穴平・夏目原一八二七他 立地環境  高根町箕輪新町から須玉町若神子の小手指坂までの八ヶ岳南麓台地を、当地方では、「片瀬」と呼ぶ。本遺跡は、この台地に沿い、穴平・中村の集落との.....(つづく).

 
 

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柳坪遺跡【若神子】
柳坪遺跡 所在地 須玉町穴平一五六〇番地他 立地環境  昭和六三年に調査が終了した夏目原遺跡の南にあって標高約六〇〇b、東に午宝蔵堰と西に遠照寺堰の二つの南下する堰に挟まれた、約一四,〇〇〇平方bの穏.....(つづく).

 
 

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蟹坂遺跡【若神子】
蟹坂遺跡 所在地 須玉町穴平字蟹坂 立地と環境  本遺跡は、約五〇〇b、須玉川右岸に沿って北東から南西へ穏やかに傾斜する河岸段丘上の南北三三〇b、東西一八〇bの範囲に占地する。県道若神子―津金線を跨い.....(つづく).

 
 

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飯米遺跡【若神子】
飯米遺跡 所在地 須玉町穴平字飯米一二〇〇番地ほか 立地と環境  本遺跡は須玉川右岸、標高五九〇?に立地する。県道津金―若神子線の東に沿って柳坪遺跡、蟹坂北遺跡の反対側にあたり、現在は水田になっている.....(つづく).

 
 

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大豆生田遺跡【穂足】
大豆生遺跡 所在地 須玉町大豆生田字大免 立地と環境  八ヶ岳からの流れを集めた須玉川は、八ヶ岳南麓台地を侵食して比高差一〇〇bの断岸を形成しながら南に向かっている。金峰山からは塩川が、茅ヶ岳西麓先端.....(つづく).

 
 

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塚田遺跡【穂足】
30 塚田遺跡 所在地 須玉町大蔵字塚田一七五一他 立地と環境    本遺跡は南流する塩川右岸の河岸段丘上に立地する。遺跡の西は尾根によって視界が遮られている。  この尾根は、斑山の南麓から中尾城を経.....(つづく).

 
 

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滝下遺跡【穂足】
滝下遺跡 所在地 須玉町大蔵字滝下 立地と環境  塩川右岸、標高約五四〇bに立地し、北に遺跡、南に古墳字時代後半期の集落を中心とする腰巻遺跡がある。

 
 

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腰巻遺跡【穂足】
腰巻遺跡 (第一次調査 平成六年度) 遺跡の所在地 須玉町藤田字腰巻七八七他 立地と環境  腰巻遺跡は、塩川の中流に形成された河岸段丘上、標高四九〇bに立地する。遺跡のある藤田地区とその周辺には、塩川.....(つづく).

 
 

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腰巻北遺跡【穂足】
腰巻北遺跡(第2次調査 平成八年) 所在地 須玉町藤田七九九-一 立地と環境  須玉町南東部、塩川右岸の河岸段丘上に立地する。遺跡の範囲は約四,二〇〇平方bで、標高四九〇bにあたる。平成六年度に調査さ.....(つづく).

 
 

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藤巻伊代守屋敷【穂足】
藤巻伊予の守屋敷 所在地 須玉町大豆生田字田(多)屋  『甲斐国誌』の士庶部第十一の藤巻伊代守の条には、「村内ニ伊予守ノ居址ト云ウ処アリ」と記されている。このことから,江戸時代後期には藤巻伊予守の屋敷.....(つづく).

 
 

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上屋敷遺跡【多麻】
上屋敷遺跡 所在地 須玉町東向字上屋敷三〇五二他  立地と環境 塩川右岸で、斑山に挟まれた標高訳六一〇?付近に立地する。東向地区は、県道増富―若神子線に沿って集落が発達している。江戸初期に三枝土佐守昌.....(つづく).

 
 

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丸茂右衛門尉屋敷【多麻】
丸茂右衛門尉屋敷 所在地 須玉町上小倉  『甲斐国誌』士庶第十一には「丸茂右衛門尉 小倉村丸茂氏ハ小笠原長清ノ後ヨリ出ヅ、(中略)身延の過去帳ニ妙道、 逸見ノ小倉丸茂右衛門尉トアル」と記されている。丸.....(つづく).

 
 

 

中尾城遺跡【多麻】
中尾城 所在地 須玉町小倉字中尾一,二〇〇他 歴史的地理的環境  斑山が尾根が南に長く下ってきた中小倉にある。『甲斐国誌』の古跡部には「中尾の塁 迹 小倉村 方三十二歩平坦ニ塁アリ。高サ二間許リ、里人.....(つづく).

 
 

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大木田遺跡【多麻】
大木田遺跡 所在地 須玉町東向字大木田 遺跡の立地と環境  本遺跡は斑山(1,115m)から南西へ舌状に延びる東側尾根下にある。その両側を,塩川(544m)沿いに中尾から東向きに経て比志、増富へ通ずる.....(つづく).

 
 

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儀生遺跡【江草】
遺跡の中に小尾街道が通り、中世の土器片が出土した。

 
 

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下平遺跡【江草】
下平遺跡 所在地 須玉町江草小池平字下平四八五番地ほか 立地環境   本遺跡は、茅ヶ岳山麓の北西、塩川左岸の段丘上にある。塩川との比高差約五〇b、標高五七〇b付近に立地する。南面に鰻沢が明野村との境と.....(つづく).

 
 

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上ノ原遺跡【江草】
上ノ原遺跡 所在地 須玉町江草字上ノ原ほか 立地と環境  上ノ原遺跡は須玉町江草に所在する。茅ヶ岳西麓、標高七八〇〜八五〇bの細長い西向きの尾根にあり、調査前は山林及び畑地であった。遺跡の南側には塩川.....(つづく).

 
 

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大柴遺跡【増富】
大柴遺跡 所在地 須玉町小尾字東小尾大柴 立地環境  本遺跡は塩川水系の本谷川右岸、東小尾山稜の丘陵南傾斜面の標高九九六?付近に立地する。増富温泉郷入り口の大柴地区の境沢と猿遠沢に挟まれた宅地・畑地部.....(つづく).

 
 

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上の平遺跡【増富】
上の平遺跡 所在地 須玉町小尾字御門小字川土四五三八,四五四六,四五〇三他 立地環境  本遺跡は標高一,〇〇〇b付近、塩川水系釜瀬川の右岸台地上に位置する。御門中橋を渡って小尾氏の菩提寺である古刹正覚.....(つづく).

 
 

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比志の烽火台【増富】
比志の烽火台 所在地 須玉町比志字城山 遺跡の概要  塩川上流の両岸に広がる比志集落の中央部を、信州と甲州を結ぶ街道が横断している。この集落は南にある江草集落とは鳥居峠と大渡の烽火台に遮られている。ま.....(つづく).

 
 

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金山金山遺跡【増富】
金山金山遺跡  所在地 須玉町大字小尾字金山八八七二他 立地環境  金山金山遺跡は端牆山と金峰山から続く金山(標高一六九〇?)の東腹、金山平と本谷川の源の金山沢に分布している。金山と端牆山の基盤は御岳.....(つづく).

 
 

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郷蔵地遺跡【増富】
郷蔵地遺跡 所在地 須玉町比志字坂下三〇三八番地ほか 立地環境  塩川左岸の上位河岸段丘上,標高八〇〇bの西斜面にある縄文時代中期終末の集落遺跡である。 縄文時代中期の住居跡が発見された。

 
 

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塩川遺跡【増富】
塩川遺跡群 所在地 須玉町比志字塩川外 立地環境  釜瀬川と本谷川が合流して塩川となる合流点の両岸に立地し、本谷川左岸の北斜面標高八六〇bにある縄文時代前期末から中期の遺跡と,釜瀬川と本谷川に挟まれた.....(つづく).

 
 

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塩川の城山【増富】
地元の伝承はありませんが、遺構は残っています。

 
 

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須玉オープンミュージアム

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〒407-0322 山梨県北杜市須玉町下津金2963
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